アンドリュー・ワイエス:アメリカの大地と孤独を、乾いた筆に込めたリアリズムの巨匠

アンドリュー・ワイエス:アメリカの大地と孤独を、乾いた筆に込めたリアリズムの巨匠

画家

生涯にわたりペンシルベニアとメインという二つの土地だけを描き続けたアンドリュー・ワイエス。「クリスティーナの世界」で知られ、テンペラと水彩で人間の孤独と大地の記憶を描いたアメリカン・リアリズムの巨匠。

はじめに:二つの土地だけを描き続けた画家

アンドリュー・ワイエス(1917-2009)は、20世紀アメリカを代表するリアリズムの画家です。抽象絵画が世界を席巻した時代に、あえて古典的なテンペラ技法と水彩による具象表現をつらぬき、故郷ペンシルベニア州チャッズ・フォードと、夏を過ごしたメイン州クッシングという二つの土地の風景と人々だけを描き続けました。その静謐な画面には、乾いた草の匂いや風の音まで宿っているかのようです。

生涯:挿絵画家の父のもとで

ワイエスは1917年、著名な挿絵画家N・C・ワイエスの末子として生まれました。病弱だったため学校にはほとんど通わず、家庭教師と父のアトリエで育ちます。父からは徹底したデッサンと、対象を骨格から把握する訓練を受けました。20歳のとき、ニューヨークの画廊で開いた初個展の水彩画が完売するという早熟ぶりを見せます。

決定的な転機は1945年でした。父N・C・ワイエスが、孫を乗せた車ごと踏切で列車に衝突して亡くなったのです。この事故以降、ワイエスの作品からは初期水彩の華やかさが消え、乾いた色調と、死や不在の気配をたたえた画面へと変わっていきます。

以後の彼が描いたのは、身近な土地と、そこに根を張る少数の人々でした。チャッズ・フォードの丘の上に住むドイツ移民の隣人カール・クルーナー夫妻、そしてメイン州で出会った、身体の不自由な女性クリスティーナ・オルソンとその弟。ワイエスは同じ家、同じ窓、同じ人物を何十年もかけて描き続けます。1971年からは隣人のドイツ系女性ヘルガ・テストルフを家族にも知らせず15年にわたり描き、1986年にその存在が公表されると世界的なニュースになりました。2009年、チャッズ・フォードの自宅で91歳の生涯を閉じています。

画風の特徴:卵と水と、乾いた筆

ワイエスの主要な技法はエッグ・テンペラです。顔料を卵黄で練った絵具は乾きが速く、油彩のように混ぜ合わせることができません。そのため細い筆で無数の短い線を重ねて面をつくる必要があり、一枚の完成に数か月を要しました。あの独特の、砂を含んだような乾いた質感はここから生まれます。一方、下絵や現場での記録には水彩とドライブラシ(筆の水気を絞って擦りつける技法)を用い、こちらは驚くほど速く自由です。色数は少なく、枯草の黄土、雪の白、板壁の灰。彼は「風景を描いているのではなく、そこにいた人の記憶を描いている」という姿勢を貫き、しばしば人物を画面から消し去ることで、かえってその不在を強く感じさせました。

代表作

  • クリスティーナの世界(1948年、ニューヨーク近代美術館):草原に横たわり、丘の上の家を見つめる女性。歩けない彼女が地面を這って移動する姿から着想されました。20世紀アメリカ絵画の象徴的な一枚です。
  • 海からの風(1947年、ナショナル・ギャラリー・オブ・アート、ワシントン):古い家の窓に吹き込む風で、レースのカーテンが持ち上がる瞬間。人物を描かずに人の気配と時間を感じさせる、ワイエスの詩情の極致です。
  • 1946年の冬(1946年、ノースカロライナ美術館):父の死の翌冬、丘を駆け下りる少年を描いた作品。事故現場の近くの丘であり、彼自身が最も自伝的な絵と語っています。
  • 踏まれた雑草(1951年):長靴の脚だけを描いた異色作。大病を経た直後の作品です。
  • ヘルガ・シリーズ(1971-85年):ヘルガ・テストルフを描いた240点余りの連作。素描、水彩、テンペラを横断しています。

同時代の画家との関係

父N・C・ワイエスは唯一の師であり、生涯の基準でもありました。姉のヘンリエッタ、義兄ピーター・ハード、息子のジェイミー・ワイエスも画家で、三代続く画家一族としても知られます。抽象表現主義が主流だった戦後アメリカの美術界では、ワイエスは「時代遅れの具象画家」として批評家に厳しく扱われる一方、一般の観客からは圧倒的に支持されました。同じアメリカの孤独を描いた画家としてエドワード・ホッパーとしばしば比較されますが、ホッパーが都市を描いたのに対し、ワイエスは徹底して田舎の土地に留まった点が対照的です。

日本で見られるか

ワイエスは日本で特に人気が高く、国内でまとまって見ることができる数少ないアメリカ人画家です。埼玉県朝霞市の丸沼芸術の森が、素描や水彩を中心に大規模なワイエス・コレクションを所蔵しており、その所蔵品による展覧会が各地を巡回しています。福島県立美術館もテンペラ画《松ぼっくり男爵》(1976年)や《そよ風》など質の高い作品を所蔵し、常設展示室で公開される機会があります。

見どころ:実物の前で何を見るか

テンペラ画の前では、思い切り近づいてください。遠目には写真のように滑らかな枯草が、実物では細い線の集積であることが分かります。一本一本引かれたその線の数が、そのまま彼の費やした時間です。次に、画面のなかで最も明るい点を探すこと。窓の光、カーテンの縁、雪の稜線——ワイエスは必ず一点だけ強い白を置き、そこへ視線を導きます。そして、描かれていないものを想像すること。空の家、空の椅子、閉じた扉。その向こうに誰がいたのかを考え始めたとき、この画家の絵は動き出します。