『名画の謎 旧約・新約聖書篇』:聖書を知れば、西洋美術の九割が見えてくる

『名画の謎 旧約・新約聖書篇』:聖書を知れば、西洋美術の九割が見えてくる

受胎告知、最後の晩餐、失楽園——。西洋名画の大半を占める聖書画を、物語としてスリリングに読み解く中野京子の人気シリーズ。美術館で「わかる」快感が増える一冊です。

はじめに:西洋絵画の「共通言語」を手に入れる

『名画の謎 旧約・新約聖書篇』(中野京子 著)は、西洋美術の最大のテーマである聖書の場面を、名画とともに読み解く美術エッセイです。2012年12月に文藝春秋から『中野京子と読み解く 名画の謎 旧約・新約聖書篇』の書名で刊行され、2016年3月に『名画の謎 旧約・新約聖書篇』と題を短くして文春文庫に収められました。単行本272ページ、文庫288ページです。聖書の物語を21話に区切り、キリスト教絵画31点をすべてカラー図版で掲げるという、ぜいたくなつくりになっています。

著者について

著者の中野京子さんは、北海道出身の作家・ドイツ文学者です。美術史の専門家として書いているのではなく、西洋の歴史と文学を土台に絵を語るという立ち位置で、そこが本書の読みやすさにつながっています。『怖い絵』シリーズによって、それまで美術書を手に取らなかった層にまで絵画エッセイの読者を広げた書き手で、本書もその延長線上にあります。「名画の謎」もシリーズになっており、本書のほかに『ギリシャ神話篇』『陰謀の歴史篇』『対決篇』などが刊行されています。

内容の骨格

扱う範囲は、「創世記」のアダムとエバから、イエスの生涯を経て「最後の審判」まで。つまり、聖書という長大な物語を頭から順に追いながら、その節目ごとに画家たちが何を描いてきたかを見ていく構成です。ダ・ヴィンチ「受胎告知」からブリューゲル「バベルの塔」まで、繰り返し描かれてきた場面の「お約束」と「逸脱」が、著者ならではの語り口で解説されます。

この本の3つの見どころ(読みどころ)

1. 図像の「お約束」がわかる

百合の花は受胎告知、鍵を持つのはペテロ、どくろは懺悔するマグダラのマリア。記号(アトリビュート)を覚えるだけで、西洋美術館の絵が次々に「読める」ようになります。ミケランジェロ「アダムの創造」やジョット「ユダの接吻」のように、名前は知らなくてもどこかで必ず見たことのある図像の意味が、その場で腑に落ちる感覚は快感です。

2. 画家ごとの解釈の違いが面白い

同じ「東方三博士の礼拝」でも、画家が違えばまるで別物になります。「イサクの犠牲」を描いたレンブラントとカラヴァッジョの対比も同様で、どこに光を当て、どの一瞬を選ぶかに画家の思想がむき出しになります。定番の場面ほど個性が出るという逆説を、豊富な図版で体感できます。

3. 物語としての聖書のダイナミズム

宗教の知識ゼロでも大丈夫です。著者は聖書をあくまで「物語」として語るので、神話や昔話を読む感覚でページが進みます。矛盾や不可解さを消してしまわず、むしろそこが絵の魅力を引き出すのだと書く姿勢も一貫していて、通勤電車のなかでも読み進められる軽やかさがあります。

どんな読者に向くか

予備知識はいりません。キリスト教の信仰も、美術史の用語も、前もって知っている必要はまったくない本です。一話が短く区切られているので、頭から通読しても、気になった場面だけを拾い読みしても成立します。展覧会へ行く前夜に、関係のありそうな章だけ読んでおく、という使い方がとくに効きます。逆に、宗教画の図像学を体系立てて学びたい方には物足りないかもしれません。あくまで入口として、絵の前で立ち止まれるようになるための本です。

類書と何が違うのか

聖書と西洋美術を結びつける本は数多くありますが、その多くは図像の辞典として編まれています。本書が違うのは、聖書の物語の流れそのものを背骨に置き、31点の絵をその流れの上に並べていく点です。引くための本ではなく、読み通せる本になっている。ここが類書と最も分かれるところです。

関連して見に行けるもの

本書で覚えた記号を試すなら、東京・上野の国立西洋美術館です。松方コレクションを核とする常設展には中世末期からバロックにかけての西洋絵画が並び、聖書に題材をとった作品も少なくありません。絵の前で「これは誰の、どの場面か」を当ててみる遊びが、そのまま鑑賞の深さになります。もう一館挙げるなら、岡山・倉敷の大原美術館。同館の代表作であるエル・グレコ《受胎告知》は、本書が最初のほうで扱う主題を、いきなり最高水準の一枚で見せてくれます。

まとめ

『名画の謎 旧約・新約聖書篇』は、西洋美術鑑賞の「解像度」を一段上げてくれる一冊です。聖書という一本の背骨を通しておくだけで、これまで素通りしていた宗教画がいっせいに意味を持ちはじめます。同じシリーズの『ギリシャ神話篇』とあわせて読めば、西洋絵画の二大源流をひととおり押さえられます。ルネサンスやバロックの宗教画が並ぶ展覧会の前に読んでおくと、効果てきめんです。

Kindle版:名画の謎 旧約・新約聖書篇(文春文庫)