熊谷守一:「画壇の仙人」と呼ばれた自由人、庭の虫と花を見つめ続けたモリカズ様式
晩年の約30年間、自宅の庭からほとんど出ることなく、アリや猫や花を描き続けた熊谷守一。赤い輪郭線と平らな色面による「モリカズ様式」で、単純の極みに生命の輝きを宿した97年の生涯。
はじめに:シンプルの極みに宿る、いのちの絵
熊谷守一(くまがい・もりかず、1880-1977)は、明治から昭和まで97年を生きた洋画家です。赤い輪郭線とフラットな色面で、猫、アリ、花、鳥といった身近な生きものを描いた晩年の様式は「モリカズ様式」と呼ばれ、一見すると子どもの絵のように単純ですが、対象を何時間も何年も見つめ続けた末にたどり着いた究極の形でした。ひげを長く伸ばし、自宅の庭で虫を眺めて暮らす姿から「画壇の仙人」と親しまれました。
生涯:栄達を拒み、庭の宇宙へ
岐阜県恵那郡付知村(現在の中津川市付知町)に生まれました。父の孫六郎は製糸業で成功し、のちに岐阜市の初代市長を務めた人物です。守一は東京美術学校西洋画科に進み、黒田清輝や藤島武二に学びました。同期には青木繁、和田三造、山下新太郎がいます。卒業制作の自画像は今も東京藝術大学に残り、1909年の文展に出した「蝋燭」は褒状を受けました。
しかし守一は世俗的な成功にまったく無頓着でした。卒業後は樺太の調査隊に同行したり、故郷で山仕事をしたりと定職を持たず、絵もほとんど売れません。1915年から二科展に出品し、翌1916年には二科会会員となりますが、貧しさは長く続き、次男の陽(よう)を4歳で、戦後には長女の萬(まん)を21歳で失っています。
1932年に東京・豊島区(当時の長崎町)に移り住んでからは、この家と庭が世界のすべてになりました。70代以降はほとんど外出せず、地面に頬杖をついてアリの歩き方を観察し、「アリは左の2番目の足から歩き出す」という有名な言葉を残します。1967年には文化勲章の内示を「これ以上人が来てくれては困る」と辞退しました。その生き方そのものが、多くの人の憧れとなっています。
画風の特徴:単純化の果てにあるもの
初期の守一は、暗い画面に光る一点を置く重厚な油彩を描いていました。それが年を重ねるごとに削ぎ落とされ、戦後には輪郭を赤や朱の線で括り、内側を平らな一色で塗る様式に至ります。線は定規で引いたようにきっぱりしていながら、わずかに震えている。色数は少なく、影も遠近法もありません。それでも猫は重く、花は咲いており、水は流れて見える——見るという行為を極限まで積み重ねた人だけが到達できる単純さです。日本画や書にも同じ線が通っており、書もまた高く評価されています。
代表作
- 蝋燭(1909年/岐阜県美術館)——闇に浮かぶ蝋燭の光と自身の顔。初期の代表作です。
- 陽の死んだ日(1928年)——病で亡くなった次男・陽の顔を描いた異色作。悲しみの中でも描かずにいられなかった画家の業と愛情を伝えます。
- ヤキバノカエリ(1948-56年/岐阜県美術館)——亡くした娘の骨を抱いて火葬場から帰る家族。守一が長く手を入れ続けた一枚です。
- 猫——丸くうずくまる猫を最小限の線と色面で描いた画題。単純化の果てに、猫の温もりや重さまで感じさせます。
- アリ——地面を歩くアリを描いた小品群。何年も観察を続けた守一だからこそ描けた、小さな生命への愛情が詰まっています。
日本で見られるか
守一はほぼ全作品が国内にある画家です。まず訪れたいのは東京・豊島区の豊島区立熊谷守一美術館。守一が45年を過ごした自宅の跡地に、次女の熊谷榧が1985年に開いた私設館が前身で、2007年に区立となりました。庭のあった場所に立つ、いわば聖地です。
生地には熊谷守一つけち記念館(岐阜県中津川市付知町)があり、100点を超える油彩に加え日本画や書も所蔵しています。岐阜県美術館は「蝋燭」「ヤキバノカエリ」など画業の節目となる作品を持ち、東京国立近代美術館や愛知県美術館も守一作品を収蔵しています。東京国立近代美術館は2017年に「没後40年 熊谷守一 生きるよろこび」を開催しました。
見どころ:実物の前で何を見るか
線の縁を見る:赤い輪郭線は、印刷では均一に見えますが、実物では筆の速度と絵具の厚みが残っています。一本の線が引かれた時間が見えます。
色面の下を透かす:平らに見える色面の下には、塗り重ねた別の色が沈んでいることがあります。単純な絵が単純な工程でできていないことに気づきます。
まとめ
熊谷守一は、遠くへ行かずに世界のすべてを見た画家です。庭の一坪から宇宙を取り出したその眼差しを、ぜひ実物の前で確かめてください。