川端龍子:会場いっぱいの大画面で勝負した「会場芸術」、日本画界の豪快な異端児
床の間の掛軸ではなく、展覧会場を圧倒する巨大画面を——。洋画から転向した川端龍子は「会場芸術」を掲げて青龍社を旗揚げし、燃える草原や怒濤の鳴門を豪快に描きました。
はじめに:日本画をデカくした男
川端龍子(1885-1966)は、昭和の日本画家です。洋画家として出発し、渡米中にボストン美術館で日本美術に感動して日本画へ転向という異色の経歴の持ち主。繊細さを尊ぶ当時の日本画壇に対し、「会場芸術」——展覧会場で大衆を圧倒する大画面主義——を掲げ、1929年に自らの団体・青龍社を旗揚げしました。
生涯:挿絵画家から、独立の旗手へ
龍子は1885年、和歌山市に生まれました。本名は昇太郎といいます。少年期に一家で上京し、白馬会洋画研究所や太平洋画会研究所で洋画を学びます。20代は新聞・雑誌の挿絵画家として腕を振るい、そこで培った「一目で伝わる構図」の力が後年の大画面へつながりました。
転機は1913年(大正2年)の渡米です。滞在中に訪れたボストン美術館で日本の古美術に圧倒され、「自分が学ぶべきはこれだ」と悟って帰国、独学で日本画へ転向します。1915年に日本美術院展(院展)で初入選、やがて同人となりますが、次第に院展の作風と合わなくなり、1928年に脱退。翌1929年、自らの団体青龍社を結成しました。掲げたのは「健剛なる芸術」と「会場芸術」——床の間で愛でる小さな絵ではなく、展覧会場で不特定多数の人間を叩きのめす絵を描く、という宣言です。
戦時中は戦意高揚の主題も描き、1945年8月13日には自宅の庭に爆弾が落ちる体験をします。その情景を描いた「爆弾散華」は、戦争画とも反戦画とも割り切れない作品です。1959年に文化勲章を受章。1963年には喜寿と受章を記念し、自邸の隣に自身の構想で龍子記念館を建てました。1966年、80歳で没しています。
画風の特徴:大きさと速度
龍子の絵は、まずとにかく大きい。数メートル四方の画面に、鳴門の渦潮や燃える夏草が叩きつけられます。技法的には、金泥・銀泥・岩絵具を厚く大胆に使い、輪郭線に頼らず面と勢いで形を作るのが特徴です。洋画出身らしい空間把握と、挿絵仕込みの構図の切れ味が土台にあります。主題も既存の日本画の枠を軽々と越え、戦闘機、爆弾、都市風景、動物、仏教説話まで何でも取り込みました。「日本画の題材はどこまで広げられるか」を生涯実験し続けたという点で、彼は近代日本画のもっとも過激な拡張者です。
代表作
- 鳴門(1929年/山種美術館):青龍社結成の年に描かれた渦潮の大作。群青の渦と白い飛沫の対比は、葛飾北斎の波の現代版というべき迫力です。
- 草炎(1930年/東京国立近代美術館):黒と見まがうほど深い紺の絹地に、夏草が金泥だけで炎のように燃え立つ代表作。床の間の花鳥画の常識を打ち破る生命力です。
- 愛染(1934年/大田区立龍子記念館):仏教主題を大画面で扱った代表作の一つ。
- 爆弾散華(1945年/大田区立龍子記念館):自宅に落ちた爆弾で吹き飛んだ庭の野菜を、金地に散華のように描いた作品。戦争の記憶を美へ転じた問題作です。
- 同時代の画家との関係
もっとも重要な対比相手は横山大観です。龍子は大観の主宰する日本美術院で頭角を現しながら、そこを飛び出して自分の団体を作りました。大観が「格調」なら龍子は「豪快」。二人を見比べると昭和日本画の振れ幅がわかります。同じ院展にいた速水御舟や小林古径が細密と品格へ向かったのに対し、龍子は正反対のスケールへ進みました。弟は俳人の川端茅舎で、その関係も龍子の主題選びに影響しています。
日本で見られるか
龍子は国内で活動した画家なので、作品はすべて日本にあります。中心は大田区立龍子記念館。龍子自身の構想による建物に約140点が収蔵され、道を挟んで旧居と庭園も公開されています。ほかに山種美術館(「鳴門」ほか)、東京国立近代美術館(「草炎」ほか)が代表作を所蔵します。大画面のため常設展示は限られ、企画展の時期を狙うのが確実です。
見どころ
- 離れて全身で見る:龍子の絵は間近で細部を愛でる絵ではありません。数メートル下がって、画面の圧を身体で受け止めてください。
- 金泥の反射角:「草炎」のような金泥作品は、立つ位置を変えると光り方が一変します。左右に歩きながら見るのが正解です。
- 大観との対比:同時代の横山大観と並べると、昭和日本画に二つの理想があったことがわかります。
まとめ
龍子は、日本画に「スケールとスペクタクル」を持ち込んだ革命児です。おとなしい日本画のイメージが変わる、入門者にこそ効く豪快さです。
代表作ギャラリー

作品画像はパブリックドメイン(出典: Wikimedia Commons)
