シュザンヌ・ヴァラドン:モデルから画家へ、モンマルトルを生き抜いた「青い部屋」の反逆者
ルノワールやロートレックのモデルを務めながら独学で絵を学び、ドガに見出されて画家となったヴァラドン。緑の縞のパジャマで煙草をくわえる「青い部屋」は、女性像の常識を覆しました。
はじめに:描かれる側から、描く側へ
シュザンヌ・ヴァラドン(1865-1938)は、フランスの画家です。洗濯女の私生児としてモンマルトルに育ち、サーカス芸人を経て、ルノワール「ブージヴァルのダンス」やシャヴァンヌの壁画のモデルとなりました。画家たちの仕事を「見て盗んで」独学し、ドガにデッサンを認められて画家として自立。画家モーリス・ユトリロの母でもあります。
生涯:モデル、母、そして画家
ヴァラドンは1865年、フランス中部リムーザン地方の村に生まれました。本名はマリー=クレマンティーヌ・ヴァラドン。父は不明で、洗濯女だった母とともに幼くしてパリのモンマルトルへ移ります。15歳頃にはサーカスの曲芸師として舞台に立ちましたが、落下事故で断念しました。
その後、モンマルトルの画家たちのモデルとなります。ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ、ルノワール、そしてロートレック。「シュザンヌ」という画号は、老人たちに覗かれる聖書の女性スザンナになぞらえてロートレックが付けたと伝えられます。1883年、18歳で息子モーリス(のちの画家ユトリロ)を出産しました。
ポーズを取りながら、彼女は画家たちの手元をじっと見ていました。独学で描き始めた素描をドガが高く評価し、版画の技法を教え、作品を買い上げます。この後押しで1894年にはサロン・ド・ラ・ナシオナルに入選しました。1909年頃から油彩に本格的に取り組み、1914年には21歳年下の画家アンドレ・ユッテルと結婚。母・息子・夫の三人が同じ家で描く暮らしを送ります。1938年、パリで72歳で没しました。
画風の特徴:太い輪郭線と、理想化しない身体
ヴァラドンの絵をひと目で見分けさせるのは太く、迷いのない黒い輪郭線です。人体は線で強く括られ、その中を鮮やかな色面が埋めます。ゴーギャンやナビ派に近い平面性がありますが、そこにモデルとして自分の身体を見られ続けた者の視点が加わります。裸婦は美化されず、肉のたるみも脚の太さもそのまま描かれ、鑑賞者に媚びる視線を返しません。19世紀の男性画家が作り上げた「見られるための女性像」を内側から書き換えた点に、彼女の歴史的な意味があります。
代表作
- 青い部屋(1923年/ポンピドゥー・センター、パリ):縞のパジャマ姿でベッドに寝そべり、煙草をくわえ、足元に本を置く女性。「横たわる裸婦」の伝統を、生活者のリアルな身体で上書きした痛快な一枚です。
- アダムとイヴ(1909年/ポンピドゥー・センター):自分と夫ユッテルをモデルに聖書主題を描いた挑戦作。女性画家が男性ヌードを公に描いた初期の例です。
- 自画像の連作:若い日から老年まで、自らの顔を飾らずに描き続けました。
同時代の画家との関係
モデル時代に接したルノワールやロートレックから、彼女は「絵の作り方」を吸収しました。決定的だったのはドガで、素描の力を認め、版画を教え、作品を購入して自立を支えます。同時代の女性画家モリゾやカサットが裕福な家の出で家庭的な主題を描いたのに対し、労働者階級から独学で這い上がり裸体を正面から扱ったヴァラドンは、際立って異質でした。そして息子ユトリロ。アルコール依存に苦しむ彼に絵を勧め、「白の時代」を支えたのは母でした。
日本で見られるか
残念ながら国内に主要作品は少なく、常時見られる美術館はほとんどありません。息子ユトリロの作品が日本各地に数多く収蔵されているのとは対照的です。ヴァラドンの絵に会うには、母子をテーマにした企画展や、パリのポンピドゥー・センター、モンマルトル美術館を訪ねることになります。日本でも2015年の生誕150年に、東京で息子ユトリロとの二人展「ユトリロとヴァラドン―母と子の物語」が開かれました。
見どころ
- 輪郭線の太さを見る:線が形を閉じ込めています。その線が身体のどこで太くなり、どこで途切れるかを追ってください。
- モデルの視線:彼女の描く女性は、こちらを見返すか、まったく無関心かのどちらかです。誘う視線がないことに気づくと、この画家の姿勢が見えます。
- モデル時代の絵と往復する:ルノワールが描いた「彼女」と、彼女が描いた女性たち。視線の主が代わると絵がどう変わるか、最高の教材です。
- ユトリロの記事とセットで:当サイトのユトリロの記事とあわせて読むと、モンマルトルの物語が完成します。
まとめ
ヴァラドンは、パリの画壇の「視線の非対称」を実力でひっくり返した画家です。その人生ごと、一級の物語です。
代表作ギャラリー








作品画像はパブリックドメイン(出典: Wikimedia Commons)