サンドロ・ボッティチェリ:メディチ家の庇護のもと、異教の女神を優美な線で蘇らせたルネサンスの詩人

サンドロ・ボッティチェリ:メディチ家の庇護のもと、異教の女神を優美な線で蘇らせたルネサンスの詩人

画家

「ヴィーナスの誕生」で知られるボッティチェリ。キリスト教が支配した中世を越え、古代ギリシャの女神を流れるような曲線で描き出し、初期ルネサンス・フィレンツェの美意識を象徴する画家となった生涯。

サンドロ・ボッティチェリ(1445頃-1510)は、初期ルネサンスのフィレンツェを代表する画家です。流れるような輪郭線で神話の女神を描き、人文主義の時代の美意識を体現しました。

生涯:メディチ家の庇護から、晩年の内省へ

本名はアレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペーピ。1445年頃、フィレンツェの皮なめし職人の家に生まれました。「ボッティチェリ(小さな樽)」は兄に由来するあだ名と伝えられます。1460年代にフィリッポ・リッピの工房で修業し、リッピの優美な人物表現を受け継ぎました。その後、ヴェロッキオの工房とも近い関係を持ち、1470年頃には独立した工房を構えています。

1470年代以降、フィレンツェを実質的に支配したメディチ家とその周辺の人文主義者たちに重用されました。とりわけロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチのために、《プリマヴェーラ》や《ヴィーナスの誕生》が制作されたと考えられています。1481年から82年にはローマに招かれ、システィーナ礼拝堂側壁のフレスコ画を、ペルジーノやギルランダイオらとともに担当しました。

1490年代、修道士サヴォナローラがフィレンツェで厳格な神権政治を敷くと、ボッティチェリの作風は宗教的・内省的な方向へ変化します。晩年は新しい世代の台頭のなかで注文が減り、1510年5月17日にフィレンツェで没しました。長く忘れられていた画業は、19世紀のラファエル前派らによる再評価を経て、現在の高い名声を得ています。

画風の特徴

ボッティチェリの絵の核は線です。同時代のレオナルド・ダ・ヴィンチが陰影のぼかし(スフマート)で立体を作ったのに対し、ボッティチェリは輪郭線そのものを波打たせ、髪や衣の襞(ひだ)に音楽的なリズムを与えました。人体は解剖学的な正確さより、首を長く、肩をなで肩に描くなど、優美さを優先して整えられています。技法は板にテンペラが中心で、鮮やかで乾いた色調と、金を用いた繊細な装飾が特徴です。主題では、キリスト教の聖母子像と並んで、古代ギリシャ・ローマの神話を大画面で描いた点が画期的でした。

代表作

  • ヴィーナスの誕生(1485年頃・ウフィツィ美術館、フィレンツェ):貝殻に乗って岸に着く女神。等身大の裸体を神話主題で描いた、当時としては大胆な作品です。
  • プリマヴェーラ(春)(1480年頃・ウフィツィ美術館):ヴィーナスを中心に、三美神や西風の神ゼピュロスらが花咲く園に集う寓意画。解釈は今も定まっていません。
  • 東方三博士の礼拝(1475年頃・ウフィツィ美術館):メディチ家の人々を礼拝者になぞらえた作品。右端でこちらを見る人物が自画像とされます。
  • ヴィーナスとマルス(1485年頃・ナショナル・ギャラリー、ロンドン)
    • 神秘の降誕(1500-01年・ナショナル・ギャラリー、ロンドン):終末的な不安を漂わせる晩年の宗教画で、画面上部に画家自身の署名と銘文が記されています。
  • 同時代の画家との関係

    師のフィリッポ・リッピからは、明るい色彩と優美な女性像を受け継ぎました。リッピの子フィリッピーノ・リッピは逆にボッティチェリの弟子となり、二代にわたる交流が生まれています。同世代のフィレンツェでは、ギルランダイオ、ペルジーノ、ヴェロッキオらが同じ画壇にあり、システィーナ礼拝堂ではともに仕事をしました。ヴェロッキオ工房出身のレオナルド・ダ・ヴィンチとは、線を重んじるか陰影を重んじるかで対照的な道を歩みました。晩年の作風の変化には、サヴォナローラの説教の影響が指摘されています。

    日本で見られるか

    国内に主要作品は少なく、常設で見られる真作はごくわずかです。丸紅ギャラリー(東京・竹橋)が所蔵する《美しきシモネッタ》は、国内にある数少ないボッティチェリ作品として知られ、数年に一度、特別公開展が開かれます。それ以外は、ウフィツィ美術館などの所蔵品を招く企画展を待つことになります。工房作や周辺画家の作品であれば、国立西洋美術館(東京・上野)などで目にする機会があります。

    見どころ

    実物の前では、まず輪郭線を目で追ってください。髪の一筋、衣の縁、指の縁が、途切れずになだらかな曲線を描いて続いていきます。次に髪です。ボッティチェリは女性の髪に異様なほどの手間をかけており、金泥を混ぜた細い線が一本ずつ引かれています。三つめは足元と重心です。人物はしばしば地面をしっかり踏んでおらず、わずかに浮いているように描かれます。この現実離れした軽さこそが、神話の世界の空気をつくっています。最後に背景の花や草に目を向けてください。植物学的に同定できるほど正確に描き分けられています。

代表作ギャラリー

ヴィーナスの誕生
ヴィーナスの誕生1485年頃ウフィツィ美術館
プリマヴェーラ(春)
プリマヴェーラ(春)1482年頃ウフィツィ美術館
受胎告知
受胎告知1489年頃ウフィツィ美術館

作品画像はパブリックドメイン(出典: Wikimedia Commons)