カミーユ・ピサロ:印象派展・全8回に参加した唯一の画家、「印象派の長老」
モネもセザンヌもゴーギャンも、みなピサロに助けられました。印象派展全8回すべてに参加した唯一の画家にして、若い才能を育てた「印象派の長老」の温かい画業をたどります。
はじめに:印象派の「背骨」だった人
カミーユ・ピサロ(1830-1903)は、カリブ海のセント・トーマス島生まれの印象派の画家です。1874年の第1回から1886年の第8回まで、印象派展のすべてに参加したのはピサロただ一人。温厚で面倒見がよく、仲間の対立を調停し、若い画家を励まし続けたことから「印象派の長老」と呼ばれます。
生涯:カリブ海からポントワーズの畑へ
生まれたのは当時デンマーク領だった西インド諸島のセント・トーマス島。商家の子として育ち、12歳でパリ近郊の寄宿学校に送られたことが絵との出会いになりました。一度は家業に戻りますが、22歳のときデンマーク人画家フリッツ・メルビュとベネズエラへ出奔し、画家として生きる決意を固めます。1855年にパリへ定住しました。
パリではコローに助言を受け、アカデミー・シュイスでモネ、セザンヌ、ギヨマンと出会います。1870年、普仏戦争を逃れてロンドンへ避難した際、ルーヴシエンヌの自宅がプロイセン軍に接収され、それまでに描いた膨大な作品の大半が失われました。一方でこのロンドン滞在は、ターナーとコンスタブルの研究、そして生涯の画商デュラン=リュエルとの出会いをもたらしました。
帰国後はポントワーズ、のちエラニー=シュル=エプトの農村に暮らします。1880年代半ばには若いスーラとシニャックの点描理論に傾倒し、50代半ばで作風を一新して第8回印象派展に新印象主義の作品を出品しました。数年で点描からは離れますが、この柔軟さこそピサロらしさです。1903年、パリで没しています。
絶対に知っておきたい!3つの見どころ
1. 農村の労働を描いた印象派
ピサロが好んで描いたのは、ポントワーズやエラニーの畑で働く農民たちです。ミレーの主題を印象派の明るい光で描き直したその画面には、無政府主義に共鳴した彼の、働く人々への敬意が宿っています。
2. セザンヌとゴーギャンの「先生」
気難しいセザンヌが「謙虚で偉大なピサロは私にとって父のような人だった」と語り、株式仲買人だったゴーギャンを絵の道に導いたのもピサロでした。ポスト印象派の二大巨匠は、どちらもピサロの畑から巣立ったのです。
3. 晩年のパリ大通り連作
目を病んで戸外制作が難しくなった晩年、ピサロはホテルの窓からパリの大通りを見下ろす連作に挑みました。「モンマルトル大通り」やオペラ座通りの雑踏のきらめきは、都市を描く印象派の到達点の一つです。ルーアンやディエップ、ル・アーヴルの港でも同様の連作を残しました。
画風の特徴
ピサロの筆は、モネのように流れず、シスレーのように溶けません。短く角ばった筆触を積み木のように重ね、画面をしっかりと構築します。この「構築する印象派」の姿勢が、隣で描いていたセザンヌに決定的な影響を与えました。緑と土色を基調とした落ち着いた色調も特徴で、派手さはありませんが、見れば見るほど画面が組み上がっているのがわかります。
代表作
- エルミタージュの丘、ポントワーズ(1867年頃/グッゲンハイム美術館、ニューヨーク)
- 赤い屋根、村の一角、冬の印象(1877年/オルセー美術館)
- 干し草の収穫、エラニー(1880年代/各館)——点描期を含む農村連作。
- モンマルトル大通り、冬の朝(1897年/メトロポリタン美術館)
- ポン=ヌフ(1902年/ひろしま美術館)——晩年のパリ連作を日本で見られる一点。
日本で見られるか
日本はピサロを見るのに恵まれた国です。国立西洋美術館は「収穫」「立ち話」「冬景色」など複数点を所蔵しています。ひろしま美術館は晩年のパリ連作「ポン=ヌフ」(1902年)を持ち、窓から見下ろす都市のきらめきを体験できます。ほかにポーラ美術館、大原美術館、アーティゾン美術館、松岡美術館、静岡県立美術館などにもピサロ作品があり、農村期から都市連作まで国内でひととおり追える画家です。
初心者が楽しむための鑑賞のコツ
「畑の空気」を吸う:ピサロの農村画は、土の匂いと風の湿り気まで描かれています。都会の喧騒を忘れたいときに効く絵です。
視点の高さに注目:晩年の大通り連作は必ず高い窓からの見下ろし。人と馬車が点描のように蠢く画面は、現代のタイムラプス映像の先祖のようです。
まとめ
ピサロは、画風の革新だけでなく人柄で美術史を動かした稀有な画家です。印象派という「チーム」の物語は、ピサロ抜きには語れません。
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作品画像はパブリックドメイン(出典: Wikimedia Commons)


