『ゴッホの耳』:あの事件の真相を7年かけて追った、執念のノンフィクション

『ゴッホの耳』:あの事件の真相を7年かけて追った、執念のノンフィクション

ゴッホは耳をどこまで切ったのか、誰に渡したのか——。一人の研究者が7年をかけ、埋もれた資料から「耳切り事件」の真相に迫った歴史ノンフィクションの傑作です。

はじめに:美術史上もっとも有名な「事件」を調べ直す

『ゴッホの耳 天才画家 最大の謎』(バーナデット・マーフィー 著)は、1888年12月に南フランスのアルルで起きたいわゆる「耳切り事件」の実像を、7年がかりの調査で洗い直したノンフィクションです。ゴッホは耳たぶだけを切ったのか、それとも耳そのものを切り落としたのか。切った耳を渡された「ラシェル」とは誰だったのか。長く曖昧なまま語り継がれてきた話を、著者は原典に当たって一つずつ確かめ直していきます。

書誌情報:どんな本か

日本語版は2017年9月に早川書房から刊行されました。訳は山田美明さん。原著は同じ2016年にイギリスで出た『Van Gogh's Ear: The True Story』です。電子書籍版は紙の刊行より後に配信されているため、電子版の配信年を刊行年と取り違えないよう注意してください。図版や地図、資料の写真も収められており、調査の過程を目で追える作りになっています。

著者について

著者のバーナデット・マーフィーさんはイギリス生まれで、のちに南フランスに移り住んだ人です。大学に籍を置く研究者ではなく、本書がデビュー作です(早川書房は「イギリスの歴史学者」と紹介しています)。近所の土地の歴史としてゴッホのアルル時代を調べ始めたことが出発点で、本書がデビュー作にあたります。刊行時にはBBCラジオ4の「ブック・オブ・ザ・ウィーク」に選ばれ、調査を追ったBBCのドキュメンタリー番組にも本人が出演しました。専門家ではない書き手が、専門家が手を付けてこなかった地味な一次資料を延々と当たっていく、その立ち位置が本書の性格を決めています。

内容の骨格:何がどの順で書かれているか

本書はおおむね時間順に進みます。ゴッホがアルルへ来て「黄色い家」に住み、ゴーギャンとの共同生活が始まり、破綻し、事件が起き、その後アルルを去るまで。そこに、著者自身が資料をどう探し当てたかという調査の現在進行形が織り込まれます。著者は当時のアルルの住民一万五千人以上を台帳から拾い出してデータベースを作り、そこから事件に関わった人々の身元を特定していきました。調査の結果として本書が提示するのは、切られた範囲についての具体的な根拠と、「ラシェル」と呼ばれてきた女性の実像です。結論そのものはここでは伏せますが、いずれも著者が現物の資料に基づいて示しているものです。

この本ならではの点

ゴッホの本の多くは、書簡と作品から画家の内面をたどります。本書はそこにほとんど寄りかかりません。戸籍、住民台帳、病院の記録、当時の新聞、子孫への聞き取り。積み上がるのは事務的な記録ばかりですが、それが結果として「狂気の天才」という出来上がった像を静かに崩していきます。アルルという町にどんな人が住み、ゴッホがその中でどう暮らそうとしていたのかが見えてくる点で、伝記というより地域史の手つきに近い一冊です。

どんな読者に向くか

ゴッホの生涯をざっと知っている方が楽しめますが、必須ではありません。作品論や様式の話はほとんど出てこないので、絵の見方を学びたい方には向きません。逆に、ノンフィクションや歴史ミステリーが好きな方には強くおすすめできます。人名と地名がかなり出てくるため、通読向きの本です。拾い読みには適しません。

関連して見に行けるもの

事件の直後に描かれた「包帯をしてパイプをくわえた自画像」は日本にはありませんが、同じアルル時代の作品なら国内で見られます。東京・新宿のSOMPO美術館が所蔵する「ひまわり」は、まさに1888年のアルルで描かれた一点です。本書を読んでから向かい合うと、ゴーギャンを迎えるために部屋を飾ろうとしていた画家の生活の側から絵が見えてきます。また、ひろしま美術館は最晩年の「ドービニーの庭」を、国立西洋美術館はサン=レミ時代の「ばら」を所蔵しています。

まとめ

『ゴッホの耳』は、伝説の輪郭を一次資料でなぞり直すとどこまで見えるのかを示した本です。ゴッホをもう知っているつもりの人ほど、読み終えたときの手ざわりが変わります。

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