マルセル・デュシャン:既製品の便器に署名し、「見る」ことの意味を根底から覆した挑発者
網膜だけを喜ばせる「網膜的美術」を拒絶し、既製品に署名するだけの「レディメイド」で美術の定義そのものを問い直したマルセル・デュシャン。晩年はチェスに没頭し、20世紀美術に最大の衝撃を与えた異才の生涯。
マルセル・デュシャン(1887-1968)は、20世紀美術の常識を根底から覆したフランス出身の芸術家です。1913年頃から、視覚的な美しさだけを追求する「網膜的美術」を拒絶し、既製の日用品を選んで署名するだけで作品とする「レディメイド」という手法を打ち出しました。「作品を選ぶという行為そのものが芸術である」という彼の思想は、後のダダやシュルレアリスムはもちろん、現代のコンセプチュアル・アート全体の出発点になったといわれています。
生涯:スキャンダル、渡米、そしてチェスへ
ノルマンディー地方の村ブランヴィル=クルヴォンに生まれました。芸術家一家で、兄のジャック・ヴィヨンは画家、もう一人の兄レーモン・デュシャン=ヴィヨンは彫刻家、妹シュザンヌも画家として活動しています。
1912年、動きを分解して描いた《階段を降りる裸体No.2》をパリのアンデパンダン展に出品しようとしますが、キュビスムの仲間たちから取り下げを求められました。ところが翌1913年、ニューヨークで開かれた「アーモリー・ショー」に出品されると、保守的な観客の激しい反発を浴びながら一躍有名になります。
第一次大戦では心臓の疾患により兵役を免除され、1915年にニューヨークへ渡りました。1917年、自身も設立に関わった独立芸術家協会展に、大量生産の男性用便器に「R.Mutt」と署名しただけの《泉》を出品します。規約上は無審査で受理されるはずでしたが会場から外され、大論争を巻き起こしました。
1923年に《大ガラス》の制作を「決定的に未完成」として中断すると、公にはほぼ制作から退き、競技チェスの選手として真剣に活動します。フランス代表としてチェス・オリンピアードにも出場しました。しかし没後、ひそかに20年をかけて作られていた最後の作品《(1)落ちる水、(2)照明用ガス、が与えられたとせよ》の存在が明らかになり、世界を驚かせました。
画風の特徴
初期には印象派、フォーヴィスム、キュビスムを次々に通過し、その総決算として《階段を降りる裸体No.2》で、時間の経過を一枚の画面に重ねる方法に到達しました。その後は絵筆そのものを手放し、既製品を選ぶ「レディメイド」、ガラスに鉛線と埃を用いる技法、精密機械の図面のような線描、そして言葉遊びを組み込んだ題名へと向かいます。「ローズ・セラヴィ」という女性の分身を名乗り、マン・レイに扮装写真を撮らせたことも、作品と作者の関係を揺さぶる試みでした。
代表作
- 泉(1917年):レディメイドの代名詞。オリジナルは失われ、1950〜60年代に作者公認で作られた複製がテート・モダン(ロンドン)、ポンピドゥー・センター(パリ)など各地に収蔵されています。
- 階段を降りる裸体No.2(1912年、フィラデルフィア美術館):人体の動きをコマ送りのように分解して描いた作品。1913年のアーモリー・ショーで物議を醸しました。
- 彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも(大ガラス)(1915-23年、フィラデルフィア美術館):2枚のガラス板に油彩と鉛線などで描かれた大作。機械的なイメージと寓意を融合させた集大成です。
- (1)落ちる水、(2)照明用ガス、が与えられたとせよ(1946-66年、フィラデルフィア美術館):木の扉の覗き穴からのみ見られる遺作です。
同時代の作家との関係
キュビスムの画家グループとは《階段を降りる裸体No.2》をめぐって決裂しましたが、生涯の盟友となったのがフランシス・ピカビアとマン・レイで、この三人がニューヨーク・ダダの中心を担いました。写真家アルフレッド・スティーグリッツは《泉》を撮影し、その写真だけが当時の姿を今に伝えています。後年はジョン・ケージ、ジャスパー・ジョーンズ、ロバート・ラウシェンバーグら次世代のアメリカ美術に決定的な影響を与えました。
日本で見られるか
京都国立近代美術館が、自作のミニチュアと複製を詰め込んだ「携帯用の美術館」《トランクの中の箱》を所蔵しています。同作の別の版は高松市美術館や兵庫県立美術館にもあり、コレクション展で公開されることがあります。2018年10月から12月にかけては、フィラデルフィア美術館の所蔵品による大規模展「マルセル・デュシャンと日本美術」が東京国立博物館で開かれました。
見どころ
レディメイドの前では、「美しいかどうか」を判断しようとするのをいったんやめてみてください。デュシャンが問うたのは、なぜこれが美術館の中にあるのか、誰がそれを決めたのか、という点です。《大ガラス》を見る機会があれば、ガラス越しに向こう側の壁や来館者が透けて見えることに注目してください。背景が固定されないこの作品は、見るたびに違う絵になります。そして題名を必ず読むこと——デュシャンの作品では、題名が作品の半分を占めています。
代表作ギャラリー





作品画像はパブリックドメイン(出典: Wikimedia Commons)

