テオドール・ジェリコー:「メデュース号の筏」一枚で時代を変えた、ロマン主義の疾走

テオドール・ジェリコー:「メデュース号の筏」一枚で時代を変えた、ロマン主義の疾走

画家

実際の海難事故を巨大画面に描いた「メデュース号の筏」で、美術を神話から現実のドラマへ引きずり出したジェリコー。馬と狂気を愛し、32歳で駆け抜けたロマン主義の先駆者です。

テオドール・ジェリコー(1791-1824)は、フランス・ロマン主義の扉を開いた画家です。1816年、フランスの軍艦メデュース号が難破し、筏で漂流した人々のうち生き延びたのはごくわずかでした。政府の失態が招いたこの現実の事件を、ジェリコーは神話画のような巨大画面に描き上げ、美術界に衝撃を与えます。わずか32年の生涯で、絵画が現実と格闘する武器になり得ることを証明した画家でした。

生涯:32年の疾走

1791年、ノルマンディーのルーアンに裕福な家の子として生まれました。パリで馬の絵を得意とするカルル・ヴェルネに学び、次いで新古典主義のピエール=ナルシス・ゲランのアトリエへ移ります。ゲランの門下には、のちに親交を結ぶウジェーヌ・ドラクロワがいました。

1812年、21歳でサロンにデビューした《突撃する猟騎兵》が金賞を得ます。1816年からイタリアに滞在し、ミケランジェロの人体表現に打ちのめされました。帰国後に取り組んだのが《メデュース号の筏》です。生存者に直接取材し、病院や死体安置所に通って死者や病者の身体を写生し、アトリエに実物大の筏の模型まで組んで、二年近くを費やしました。

1820年から翌年にかけてはイギリスに滞在し、競馬や街の労働者を題材にリトグラフを制作しています。晩年、精神科医エティエンヌ=ジャン・ジョルジェの依頼で精神疾患を抱える人々の肖像連作を描きました。無類の馬好きでしたが、落馬による負傷が長引き、そこに結核が重なって、1824年、32歳で世を去ります。

画風の特徴

ジェリコーの絵は、身体の描き方が異様です。ミケランジェロ的な筋肉の量感を持ちながら、それが理想化された英雄ではなく、飢えた漂流者や瀕死の兵士に与えられている。この落差が見る者を揺さぶります。構図は激しい斜めの線で組み立てられ、画面の中に運動が走ります。色は暗く、褐色と黒が支配的で、光は劇的に一点へ集中する。歴史画の壮大な様式を、神話ではなく「いま起きている出来事」に注ぎ込んだこと。これがジェリコーの決定的な新しさでした。

代表作

  • 突撃する猟騎兵(1812年、ルーヴル美術館):身をよじる馬と騎兵を斜めに配した、21歳のデビュー作です。
  • 負傷して戦場を去る胸甲騎兵(1814年、ルーヴル美術館):勝利ではなく敗走する兵士を主役にした、当時としては異例の一枚です。
  • メデュース号の筏(1818-19年、ルーヴル美術館):491×716センチの大画面。手前の絶望から、遠くの船影に手を振る男へと、感情が波のように連なります。
  • エプソムの競馬(1821年、ルーヴル美術館):四肢を伸ばして宙に浮く馬。実際の走り方とは異なりますが、速度の感覚そのものを描いた作品です。
  • モノマニー(偏執狂)の肖像(1822-23年頃、リヨン美術館ほか):10点描かれ、現在5点が確認されています。患者を見世物ではなく一人の人間として描いた、美術史上の記念碑です。

同時代の画家との関係

師のゲランは新古典主義の画家でしたが、ジェリコーはそこから離れ、ルーベンスやミケランジェロの躍動する身体へ向かいました。同じアトリエにいた七歳年下のドラクロワはジェリコーを深く尊敬し、《メデュース号の筏》の人物のモデルを務めたと伝えられています。ジェリコーの早世後、ロマン主義の旗手の役割はそのままドラクロワへ引き継がれました。若い頃にはグロの戦争画にも学んでおり、英雄的でない兵士の姿という主題はそこから受け継いだものです。

日本で見られるか

ジェリコーの油彩の主要作はルーヴル美術館に集中しており、国内に代表作はありません。ただし国立西洋美術館が素描《ローマの牛追い》と、イギリス滞在中のリトグラフ連作から《フランスの蹄鉄工》を所蔵しています。いずれも小さな作品ですが、彼が人体と馬をどのように把握していたかを直接確かめられる貴重な機会です。

見どころ

《メデュース号の筏》の前に立つ機会があれば、手前の左下から視線を始めてください。息子の亡骸を抱えて動かない老人、そこから少しずつ体を起こしていく人々、そして頂点で布を振る男へ。絶望から希望へ、感情が階段のように積み上がる構造が見えてきます。次に、筏そのものの傾きと、押し寄せる波の向きを確かめてください。人々が希望へ向かう方向と、筏が流されていく方向は逆です。この矛盾こそが、この絵をただの感動的な場面から遠ざけています。素描を見る際は、馬の脚と人体の筋肉の線を追ってください。速度を線で捉えようとした画家の目が、そこにあります。

代表作ギャラリー

メデュース号の筏
メデュース号の筏1819年ルーヴル美術館
エプソムの競馬
エプソムの競馬1821年ルーヴル美術館
賭博偏執狂の女
賭博偏執狂の女1822年頃ルーヴル美術館

作品画像はパブリックドメイン(出典: Wikimedia Commons)