『等伯』:松林図屏風にたどり着くまで。長谷川等伯の闘いを描いた直木賞受賞作

『等伯』:松林図屏風にたどり着くまで。長谷川等伯の闘いを描いた直木賞受賞作

能登の絵仏師から身を起こし、狩野永徳率いる狩野派に挑んだ長谷川等伯。国宝「松林図屏風」に至る苦難の道のりを描き、直木賞を受賞した本格歴史小説です。

はじめに:日本水墨画の最高峰は、いかに生まれたか

『等伯』(安部龍太郎 著)は、桃山時代の絵師・長谷川等伯(1539〜1610)の生涯を描いた長編歴史小説です。能登・七尾で絵仏師として腕を磨いた等伯が、一族を率いて上洛し、当代随一の狩野永徳と競いながら、国宝《松林図屏風》へたどり着くまでの魂の遍歴を描きます。

書誌

『日本経済新聞』に2011年1月から2012年5月まで連載され、2012年9月に日本経済新聞出版社から上下巻で刊行されました。翌2013年1月、2012年下半期の第148回直木賞を受賞しています。2015年9月には文春文庫に収められ、いまは文庫でも手軽に読めます。

著者について

安部龍太郎さんは、戦国から江戸初期を主戦場とする歴史小説の書き手です。本作での直木賞受賞は五十七歳のときで、長く書き続けたのちの受賞でした。史料の空白を想像で埋めるにあたって、絵師という職業がどう成り立っていたか——誰に注文され、いくらで請け、どこに寝泊まりしたか——という即物的な部分から積み上げていくのが、この作家の書き方です。画論ではなく職業の物語として桃山画壇を書いた点に、本作の特徴があります。

この本の3つの見どころ(読みどころ)

1. 等伯 vs 永徳、桃山画壇の頂上決戦

権力と結びついた巨大工房・狩野派と、後ろ盾を持たない地方出身の一匹狼。豊臣秀吉の御用をめぐる駆け引きは、芸術小説でありながら手に汗握る政治劇でもあります。等伯が仕事を得るために寺や公家のネットワークを一つずつ手繰り寄せていく描写は、当時の絵師が「誰に売り込むか」で生き死にの決まる職業だったことを教えてくれます。絵の才能だけでは食えない——その現実感が物語に厚みを与えています。

2. 戦国という時代の残酷さ

信長・秀吉の時代、絵師もまた乱世を生きる一人でした。等伯には久蔵という優秀な息子がおり、京都・智積院の障壁画を父子で手がけた直後、久蔵は二十代の若さで世を去ります。ようやく頂点に立った瞬間に最愛の後継者を失うという展開は、史実に基づくだけに重く、家族の物語としても深く胸を打ちます。

3.《松林図屏風》誕生の瞬間

すべてを失った果てに、霧の中の松林が描かれる——。あの余白と静寂がどこから来たのかを、物語として体験できるのは本作ならではです。もちろん制作の経緯には不明な点が多く、小説的な解釈も含まれますが、絵の前に立ったときに誰もが抱く「なぜこんなに寂しいのか」という問いに、一つの答えを与えてくれます。

どんな読者に向くか

美術史の知識はいりません。絵の技法用語はほとんど出てこず、必要な背景は物語のなかで説明されます。日本史も、信長と秀吉の順番が分かっていれば十分です。ただし上下巻という分量があるので、辞書のように引く本ではなく、腰を据えて通読する本です。等伯の作品を一点も見たことがなくても読めますが、《松林図屏風》の図版だけは手元に置いて、ときどき眺めながら読むと格段に面白くなります。逆に、確定した史実だけを知りたい方には向きません。空白部分は小説として埋められています。

類書と何が違うのか

画家を主人公にした歴史小説は数多くありますが、その多くは天才の内面を描くことに力を注ぎます。本作は、等伯を「営業する人」として描いた点が際立っています。注文を取り、一門を食わせ、ライバルを出し抜く。芸術の話でありながら、読み味はむしろ経営小説に近い。桃山という時代が、絵を大量に必要とした特殊な時代だったからこそ成立する書き方です。

関連して見に行けるもの

六曲一双の国宝《松林図屏風》は東京国立博物館の所蔵で、例年、年始に本館の国宝室で公開されるのが恒例になっています。ただし展示期間は限られるので、出かける前に公開情報を確かめてください。京都の智積院には、等伯と久蔵ら一門が手がけた国宝の障壁画が伝わり、宝物館で見ることができます。小説で読んだ父子の仕事を、同じ空間で並べて見られる場所です。故郷・七尾の石川県七尾美術館は等伯の作品や資料を収蔵し、春に等伯にちなむ展覧会を開くことで知られています。

まとめ

『等伯』は、日本美術史上屈指の名作の背景を、一人の人間の物語として味わえる歴史小説です。上下巻とボリュームはありますが、美術の知識がなくても一気に読める娯楽性があり、安土桃山美術への案内書にもなっています。読み終えたら、ライバル狩野永徳の側から同じ時代を描いた山本兼一『花鳥の夢』へ進むのもおすすめです。

Kindle版:等伯(上)(日本経済新聞出版)