『満つる月の如し 仏師・定朝』:仏像は誰を救うために彫られるのかを問う歴史小説
平安中期、日本独自の穏やかな仏像様式を完成させた実在の仏師・定朝を描く歴史小説です。疫病と飢えに苦しむ人々の前で「自分の彫った仏に意味はあるのか」と煩悶する若き天才。芸術の存在理由を問い、新田次郎文学賞を受賞した澤田瞳子の代表作です。
はじめに:仏像は、誰を救うために彫られるのか
『満つる月の如し 仏師・定朝』(澤田瞳子 著)は、平安中期に活躍した実在の仏師・定朝を主役に据えた歴史小説です。舞台は藤原道長・頼通が権勢を誇った時代の京。定朝は日本独自の穏やかな仏像様式、いわゆる和様を完成させた人物で、確かな遺作として現存するのは平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像だけという、半ば伝説のなかの存在です。
書誌
2012年3月に徳間書店から刊行されました。単行本で384ページ、現在は徳間文庫でも読めます。刊行の年に本屋が選ぶ時代小説大賞2012を、翌年には第32回新田次郎文学賞を受賞し、著者の名を広く知らしめた一冊になりました。
著者について
澤田瞳子は1977年、京都の生まれ。大学院で奈良仏教史を学んだ研究者としての出発点を持ち、2010年に『孤鷹の天』で小説家としてデビューしました。同作は第17回中山義秀文学賞を当時の最年少で受賞しています。その後も奈良・平安を中心とした歴史小説を書き継ぎ、2021年には『星落ちて、なお』で直木賞を受賞しました。古代史の素養を持つ書き手が、資料に残らない部分を小説の言葉で埋めていく。本作の手触りの確かさは、この経歴と切り離せません。
内容の骨格
物語の軸となるのは、内供奉に任じられた僧・隆範との関係です。若い仏師・定朝が修理した仏像に打たれ、その後見人となっていく人物で、二人はやがて権謀術数の渦中に巻き込まれていきます。読み進めるうちに断片が寄り集まって定朝という人間の像が立ち上がってくる構成です。仏師が木を彫り出して仏の姿を現すように、読者もまた少しずつ主人公の輪郭を掴んでいく。この重なりが、読後に静かな余韻を残します。
この本の3つの見どころ(読みどころ)
1.「仏を作ること」への疑い
この小説の芯にあるのは、定朝の煩悶です。貴族も庶民も彼の仏像を心の拠り所として仰ぎます。しかし目の前には、疫病と飢えに苦しむ人々がいる。その現実に対して、自分が彫った木の像にいったい何ができるのか。定朝は問い続けます。これは平安時代の話でありながら、芸術は何のためにあるのかという、今も答えの出ていない問いそのものです。
2.華やかな王朝像を裏返す筆
藤原氏の栄華といえば優雅な王朝文化を思い浮かべますが、本作が描くのはその裏側です。造仏は権力者の発願で動き、寺も僧も政治から切り離せません。金と力と信仰が絡み合う場所で仏像が生まれていく過程が、冷静な筆致で書き込まれています。
3.仏師という職能の描写
木を寄せて組み上げる寄木造の工程、工房を率いる棟梁としての立場、そして造仏の功績によって僧の位が与えられていく仕組み。仏像を「作品」ではなく「仕事」として見せてくれるので、美術館や寺で仏像の前に立ったときの実感がまるで変わります。
どんな読者に向くか
仏像の知識は前提とされていません。定朝も寄木造も知らないまま読み始めて大丈夫ですが、平安中期の官職や寺院の名が地の文にそのまま出てくるので、まったく歴史小説に慣れていない人は最初の数十ページで少し息を切らすかもしれません。そこを越えれば、あとは連作短編のリズムに乗って進めます。拾い読みには向かず、頭から通して読む本です。仏像めぐりが趣味の人、宗教と権力の関係に関心がある人、そして「作ることの意味」を扱った小説を読みたい人に向きます。
類書との違い
仏師を描いた小説では運慶・快慶を扱ったものが目立ちますが、本作が選んだのは、鎌倉の力強い写実ではなく、その二百年前の穏やかな和様を作り上げた側です。しかも視点人物は仏師本人ではなく、彼を支えた僧。作る人を、支える人の目から見るという構えが、この小説を単なる芸術家小説から遠ざけています。
この本を読んだ後の、おすすめのアクション
京都府宇治市の平等院鳳凰堂へ、定朝の阿弥陀如来坐像に会いに行きましょう。堂内に安置された本尊は、まさに小説の主人公が彫った像そのものです。併設のミュージアム鳳翔館では、雲中供養菩薩像を間近な高さで鑑賞できます。定朝様の広がりを確かめたい方は、京都市伏見区の法界寺阿弥陀堂に安置された阿弥陀如来坐像もぜひ。
まとめ
本作は、仏像を美術品としてではなく、誰かの祈りを引き受ける器として見せてくれる小説です。歴史小説の顔をしていますが、その中心にあるのは芸術家の葛藤という普遍的な主題です。
Kindle版:満つる月の如し 仏師・定朝(徳間文庫)
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