『たゆたえども沈まず』:ゴッホと日本人画商、パリで交差した二つの人生

『たゆたえども沈まず』:ゴッホと日本人画商、パリで交差した二つの人生

原田マハが描く、フィンセント・ファン・ゴッホと日本人画商・林忠正の物語『たゆたえども沈まず』。19世紀末パリのジャポニスムの熱狂を背景に、ゴッホ兄弟の絆と日本美術の関わりを描く長編小説です。

はじめに:ゴッホの物語に「日本」という補助線を引く

ゴッホの生涯を語る本は数え切れないほどありますが、そこに「日本」という補助線を引いた小説は多くありません。『たゆたえども沈まず』(原田マハ 著)は、19世紀末のパリで日本美術を売った実在の画商・林忠正を物語の中心に据えることで、ゴッホという画家の見え方を静かに描き替えていきます。

タイトルは、パリ市の紋章に刻まれた標語「たゆたえども沈まず(Fluctuat nec mergitur)」から取られています。荒波に揺られながらも沈まない船を意味する言葉が、そのまま登場人物たちの生き方に重なります。

書誌と著者について

本書は2017年10月に幻冬舎から刊行された長編小説です。四六判で400ページを超える厚みがあり、2020年4月には幻冬舎文庫に収められました。2018年の本屋大賞では第4位に選ばれています。

著者の原田マハは1962年東京生まれ。早稲田大学第二文学部で美術史を学び、森ビルの森美術館設立準備室やニューヨーク近代美術館(MoMA)での勤務を経て、2002年にフリーのキュレーターとなりました。2005年に『カフーを待ちわびて』で第1回日本ラブストーリー大賞を受賞して作家デビューし、2012年には『楽園のカンヴァス』で第25回山本周五郎賞、2017年には『リーチ先生』で第36回新田次郎文学賞を受けています。美術の現場を知る書き手が、資料と想像力の両方を使って書いた小説だという点が、本書の土台になっています。

物語の骨格と、実在の人物・架空の人物

物語はパリと、そこに集まった男たちを軸に進みます。実在の人物はフィンセント・ファン・ゴッホ、画商だった弟のテオドルス(テオ)、日本美術商の林忠正、そしてポール・ゴーギャン。架空の人物は、林の助手として物語の語り手役を担う青年・加納重吉です。史実の隙間に架空の一人を置き、その目を通して実在の人物たちを見せるという構成になっています。

1. ジャポニスムの熱狂を生きた男・林忠正

林忠正は、19世紀末のパリで浮世絵をはじめとする日本美術を扱い、ジャポニスムの流行を支えた実在の美術商です。西洋美術史の記述の中では脇に置かれがちだったこの人物に光を当てたことが、本作の大きな独自性です。

2. 浮世絵に憧れたゴッホという視点

ゴッホが浮世絵を熱心に集め、模写し、「日本」に理想郷を思い描いていたことはよく知られています。本作はその憧れを物語の軸に据え、ゴッホの絵に流れ込んだ日本美術の影響を、小説という形で体感させてくれます。

3. 兄フィンセントと弟テオの絆

売れない兄を信じ、支え続けた画商の弟テオ。二人が交わした膨大な手紙という史実を下敷きに、その愛情と苦悩が丁寧に描かれ、終盤の展開は多くの読者の記憶に残ります。

どんな読者に向くか

美術史の予備知識はほとんど必要ありません。ゴッホの代表作をいくつか知っている程度で十分読み進められ、むしろ「ゴッホの名前しか知らない」段階の人にこそ向いた入口の一冊です。400ページ超の長編ですが会話と場面転換が多く、通読向きの読み心地です。一方で、林忠正の実像を史料に即して知りたい場合は、本書はあくまで小説ですので、評伝や研究書に当たる必要があります。

関連して見に行けるもの

読後にゴッホの実物を見たいなら、東京のSOMPO美術館が「ひまわり」を、国立西洋美術館が「ばら」を所蔵しています。あわせて、ゴッホが憧れた浮世絵の側からたどるのもおすすめです。東京・原宿の太田記念美術館は浮世絵専門館で、歌川広重や歌川国芳といった、当時パリに渡って熱狂を生んだ絵師たちの作品を定期的に展示しています。

まとめ

『たゆたえども沈まず』は、ゴッホの悲劇を「日本との出会い」という角度から描き直した物語です。読み終えたあと、ひまわりや星月夜が少し違う輝きを帯びて見えてくるはずです。

Kindle版:たゆたえども沈まず(幻冬舎文庫)