『若冲』:奇想の画家・伊藤若冲の執念を描いた歴史小説
江戸中期の奇想の画家・伊藤若冲を主人公にした澤田瞳子の歴史小説。家業を顧みず絵に没頭する若冲と、彼を恨む義弟との確執を軸に、「真実の美」への執念を描く直木賞候補作。
はじめに:なぜ若冲は、あそこまで絵に憑かれたのか
近年の展覧会でも絶大な人気を誇る江戸中期の画家・伊藤若冲。その常軌を逸した執念に満ちた画業の「なぜ」に、小説という形で迫ったのが『若冲』(澤田瞳子 著)です。京の錦高倉市場に店を構える青物問屋・枡源の主人でありながら、家業よりも絵に没入していく男の半生を、周囲の人間の視点も交えて描き出していきます。
書誌と受賞歴
本書は2015年4月に文藝春秋から刊行された長編時代小説で、2017年4月には文春文庫に収められました。第153回直木賞の候補作となり、翌2016年には第5回歴史時代作家クラブ賞(作品賞)と第9回親鸞賞を受賞しています。直木賞は候補どまりで、受賞ではない点は押さえておきたいところです。
著者について
著者の澤田瞳子は1977年京都府生まれ。同志社大学文学部を卒業し、同大学院で文化史学を専攻しました。2010年に『孤鷹の天』で小説家としてデビューし、以後、奈良時代から江戸期まで幅広い時代を舞台に歴史小説を書き続けています。2021年には『星落ちて、なお』で第165回直木賞を受賞しました。仏師・定朝を主人公にした『満つる月の如し』など、美術・造形の作り手を主人公に据えた作品を重ねてきた書き手であり、『若冲』もその系譜に連なる一冊です。
物語の骨格
物語は、妻を亡くした若冲がひたすら絵に打ち込み、独自の境地へと踏み込んでいく道筋を追います。その傍らに置かれるのが、亡き姉の仇として若冲を憎み、贋作を描き続ける義弟・弁蔵の存在です。この二人の確執が全編を貫く軸となり、そこに池大雅、与謝蕪村、円山応挙といった同時代の京都の絵師たちとの交わりが重なっていきます。
1. 史実の空白を埋める、小説ならではの想像力
若冲の生涯には史料上の空白が多く残されています。若冲が妻帯したことを示す史料は知られておらず、本作の妻をめぐる設定や義弟との対立は、その空白に作者が置いた創作です。史実と創作の境目を意識しながら読むと、作者の狙いがよりはっきり見えてきます。
2. 「見る」ことに憑かれた男の孤独
対象をひたすら見つめ続けることでしか真実に届かないと信じた男の、狂気すれすれの孤独な情熱が生々しく描かれます。若冲の絵の異様な密度が、どこから来たのかを想像させる筆致です。
3. 京都の商家社会というもう一つの主役
本作は江戸中期の京都の商家社会そのものを克明に描いた作品でもあります。家業と絵の間で引き裂かれる若冲の姿は、当時の商家に生まれた者が背負っていた重圧を映し出しています。
どんな読者に向くか
時代小説を読み慣れていない人でも、若冲の絵を何点か見たことがあれば十分に入っていけます。江戸中期の京都の商家や画壇の呼称がそれなりに出てくるため、一気に通読するタイプの本です。逆に、若冲の画歴を年表的に確かめたい人には向きません。その用途には、辻惟雄『奇想の系譜』のような美術史の本や、展覧会図録のほうが適しています。
関連して見に行けるもの
若冲の代表作「動植綵絵」全30幅は、皇居三の丸尚蔵館(東京)が所蔵しています。京都では、若冲が「動植綵絵」を寄進した相国寺の承天閣美術館が「釈迦三尊像」や鹿苑寺大書院障壁画を所蔵し、細見美術館も若冲作品を複数持っています。栃木の佐野市立吉澤記念美術館は重要文化財「菜蟲譜」の所蔵館です。いずれも展示替えがあるため、訪問前に公開状況の確認をおすすめします。
まとめ
『若冲』は、天才の内面に潜む孤独と執着を通して、「なぜ人は描かずにいられないのか」を問いかける歴史小説です。展覧会で若冲の絵に圧倒された経験がある人ほど、読後の実物の見え方が変わる一冊です。
Kindle版:若冲(文春文庫)
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