『陰翳礼讃』:日本の美は、明るさではなく「陰」にあると説いた名随筆

『陰翳礼讃』:日本の美は、明るさではなく「陰」にあると説いた名随筆

漆器は薄暗がりでこそ輝き、日本家屋は深い庇でわざわざ影をつくる。急速に西洋化していく昭和初期の日本で、谷崎潤一郎が「陰翳」という一語を手がかりに日本の美意識を語り直した、四十数ページの古典的名随筆です。読みやすさや時代的な偏りも含めて正直に紹介します。

はじめに:日本の美は、光をあてた先ではなく薄暗がりに宿る

スイッチひとつで部屋の隅々まで明るくなる——それが当たり前になった時代に、「その明るさこそが日本の美を殺したのではないか」と問いかけたのが『陰翳礼讃』(谷崎潤一郎 著)です。雑誌『経済往来』の1933年(昭和8年)12月号と翌1934年1月号に発表された、二回きりの短い随筆でした。1935年に随筆集『摂陽随筆』に収められ、1939年に創元社から単行本になっています。いま手に取りやすいのは中公文庫版で、1975年の初版のあと1995年に改版されました。

建築、照明、紙、食器、料理、化粧、能の衣裳。谷崎の関心はあちこちに飛びますが、話題を貫く軸はひとつです。日本の美しさとは、光をあてて隅々まで見せることではなく、薄暗がりのなかにものを置いたときに立ち上がってくるものだ、という確信です。

著者について

谷崎潤一郎は1886年、東京・日本橋の生まれです。『刺青』で世に出て、『痴人の愛』『春琴抄』『細雪』などを残した近代日本を代表する小説家で、1965年に亡くなりました。

この随筆を読むうえで効いてくるのが、谷崎が関東大震災のあと関西へ移り住んだという事実です。生まれ育った東京の近代都市化からいったん離れ、上方の家屋や工芸、古い生活の作法に囲まれて暮らすなかで書かれたのが本作でした。西洋化する日本を外から論じるのではなく、住まいの内側で感じ取った違和感として書けたのは、この経歴があってのことです。

この本の3つの見どころ(読みどころ)

1. 漆器と羊羹。暗がりでこそ輝くものたち

漆の椀は、明るい食卓の上ではただ黒く沈んで見えるだけですが、行燈のゆらぐ灯りの下に置くと、金蒔絵の文様が浮かんだり消えたりする。汁椀の蓋を取ったときの、闇と見分けがつかないほど深い液体の色。羊羹の半透明な暗さ。こうした記述を読むと、私たちが美術館のガラスケースのなかで見ている工芸品が、本来どんな光のもとに置かれ、どう見えていたのかに、はっと気づかされます。

2. 日本家屋は、影をつくるための装置だった

深い庇を出して日光をさえぎり、障子で光を弱め、その奥に床の間の暗がりをつくる。谷崎はこれを、日本人がわざわざ暗くしてきたのだと読み解きます。西洋建築が光を取り込む方向へ進んだのに対し、日本の家は影を確保する方向に工夫を重ねてきた、という対比です。厠や浴室の設計にまで話が及ぶのが谷崎らしいところで、清潔で明るいタイル張りよりも、木と紙と薄暗さのある古寺の厠のほうに趣がある、と本気で書いています。

3. 近代化への違和感を、理屈ではなく感覚の言葉で語る

この随筆の底に流れているのは、急速に西洋化していく日本への強い居心地の悪さです。ただ谷崎はそれを政治や思想の言葉ではなく、器や灯りや肌の色といった感覚の言葉で語りました。だからこそ本書は、いまも建築家やデザイナー、照明設計者に読まれ続けています。主張に賛成するかどうかは別として、美意識は文明のかたちと結びついているという視点そのものが、大きな発見です。

どんな読者に向くか

予備知識はいりません。何より短いのが最大の長所で、腰を据えれば一、二時間で読み終えられます。頭から通読する種類の文章で、辞書のように引く本ではありません。

ただし一文が長く、話題が予告なく飛びます。論点が整理された新書に慣れた読者は、少し戸惑うかもしれません。また、女性の美しさをめぐる記述など、いま読めば明らかに時代的な偏りを感じる箇所もあります。1930年代の一人の小説家の感覚として読むのが、無理のない距離の取り方です。

この本を読んだ後の、おすすめのアクション

照明を落とした展示室で、漆器をあらためて見てください。東京国立博物館や根津美術館(東京・南青山)の工芸の展示室では、蒔絵や螺鈿の作品が意図的に照度を落とした環境に並んでいます。「暗くて見えにくい」と感じていたその暗さこそ、作品が本来置かれていた光に近いのです。

あわせて、東京国立博物館が所蔵する長谷川等伯の《松林図屏風》を思い出してみてください。墨の濃淡と余白だけで霧の奥行きを描いた国宝で、谷崎のいう陰翳を絵画で体現したような作品です。通年公開ではないので、展示情報を確かめてから出かけてください。

いちばん手軽な実験は自宅でできます。夜、部屋の照明をひとつだけにして、和菓子を漆や黒い器にのせてみてください。

まとめ

読み終えたあと、街の照明や自宅の食卓が違って見えてくる。読書の効き目がこれほど日常に及ぶ本は、そう多くありません。日本の美意識に興味を持ったら、最初に手に取ってほしい一冊です。

Kindle版:陰翳礼讃(角川ソフィア文庫)