菱田春草:36歳で散った日本画の彗星、伝統の「黒」を捨てて色彩の空気感を追求した天才

菱田春草:36歳で散った日本画の彗星、伝統の「黒」を捨てて色彩の空気感を追求した天才

画家

横山大観とともに「朦朧体」を切り拓き、若くして日本画のニューリーダーとなった菱田春草。失明の危機と闘いながら、「落葉」や「黒き猫」を描き、日本の自然の叙情と静寂を極限まで洗練させた夭折の天才の生涯。

菱田春草(1874-1911)は、明治期の日本画家です。横山大観・下村観山とともに岡倉天心の門下にあり、日本画の近代化を担いました。大観が豪快で大づかみな画面をつくったのに対し、春草は色彩のわずかな差で空気と光を描き分ける、繊細で理知的な画家でした。36歳で世を去っています。

生涯:飯田から東京美術学校へ、そして早すぎる終わり

春草は1874年、長野県飯田(仲ノ町)に生まれました。本名は三郎治です。東京美術学校で岡倉天心・橋本雅邦に学び、1895年に卒業。1898年、天心が官を追われて日本美術院を創立すると、大観・観山らとともに創立に加わりました。

この時期、春草と大観は輪郭線を用いずに色の面と暈しで空気を描く試みに取り組みます。これが後に「朦朧体(もうろうたい)」と呼ばれるものですが、当時の批評は厳しく、作品は売れず、経済的にも苦しい日々が続きました。1903年から翌年にかけて大観とインド、次いでアメリカ・ヨーロッパを巡り、外国では高い評価を受けます。帰国後は五浦(茨城県北茨城市)に移り、やがて東京・代々木に居を構えました。

1910年ごろから腎臓病を患い、それにともなう網膜炎で視力が著しく低下します。療養と制作を繰り返しながら《落葉》《黒き猫》を描き上げ、1911年9月16日、37歳の誕生日を目前に亡くなりました。

画風の特徴

春草の技法上の核は、輪郭線に頼らない描写です。初期の朦朧体では色の暈しで空間をつくり、後期には細い線と色の重ねを併用して、木立の奥行きや空気の層を表現しました。晩年は琳派など古典の装飾性も取り込み、平面的な構成と精緻な写実を同居させています。色数は多くありませんが、その少ない色のなかに段階を細かく刻むのが春草のやり方です。

代表作

  • 落葉(1909年、永青文庫):重要文化財。代々木周辺の雑木林を描いた屏風で、手前の木は細部まで、奥は次第にぼかして描き、林の奥行きを段階的に感じさせます。
  • 黒き猫(1910年、永青文庫):重要文化財。柏の枝にとまる黒猫を描いた作品で、第四回文展に短期間で仕上げて出品されました。黒一色に見える猫の毛が、微妙な濃淡で描き分けられています。
  • 賢首菩薩(1907年、東京国立近代美術館):重要文化財。中国唐代の僧・賢首(法蔵)が鏡を使って教理を説く場面を描いた歴史画です。
  • 王昭君(1902年):重要文化財。匈奴へ送られる王昭君との別れを描いた大作で、朦朧体を模索していた時期の代表作です。
  • 菊慈童(1900年、飯田市美術博物館):初期の代表作のひとつで、故郷の美術館が所蔵しています。

同時代の画家との関係

春草を語るうえで欠かせないのが横山大観です。二人は東京美術学校の先輩後輩であり、日本美術院の同志であり、朦朧体という同じ実験の当事者でした。大観は春草の死後もその画業を高く評価し続けています。下村観山とも生涯の同志でした。師の岡倉天心は春草の資質を早くから認め、日本美術院の中核に据えています。橋本雅邦は美術学校時代の直接の師です。

日本で見られるか

春草は国内に作品がまとまって残っています。永青文庫(東京・目白台)が《落葉》《黒き猫》の二大重要文化財を所蔵し、東京国立近代美術館が《賢首菩薩》を持ちます。生地の飯田市美術博物館には「菱田春草常設展示室」があり、収蔵作品を入れ替えながら通年で紹介しています。ほかに東京藝術大学大学美術館、茨城県近代美術館などにも作品があります。絹本の作品は展示期間が限られるため、事前確認をおすすめします。

見どころ

春草の絵は、近づくと印象が変わります。《落葉》なら、手前の幹の描き込みと、奥の木のぼやけ方を見比べてください。ピントの合い方が距離ごとに変えてあり、それだけで林の深さが出ています。《黒き猫》では、黒い塊に見える猫の体に何段階の墨が使われているかを探すのが面白いところです。輪郭線を引かずに形をどう成立させているか、という一点に注目すると、春草の格闘が見えてきます。

代表作ギャラリー

落葉
落葉1909年永青文庫
王昭君
王昭君1902年善寶寺
猫梅
猫梅1906年足立美術館

作品画像はパブリックドメイン(出典: Wikimedia Commons)