『ゴッホのあしあと』:日本に憧れ続けた画家の足どりを、作家がたどる一冊

『ゴッホのあしあと』:日本に憧れ続けた画家の足どりを、作家がたどる一冊

ゴッホは狂気の天才ではなく、研究熱心な働き手だった。浮世絵への憧れという補助線から、その生涯と作品を読み直す幻冬舎新書です。当サイトで紹介済みの『モネのあしあと』の姉妹本にあたり、一人の画家をとことん掘っていきます。

はじめに:ゴッホは「狂気の天才」ではなく、研究熱心な人だった

『ゴッホのあしあと』(原田マハ 著)は、フィンセント・ファン・ゴッホの生涯と作品を、キュレーター出身の作家が案内する一冊です。副題は「日本に憧れ続けた画家の生涯」。著者はまず、悲劇の天才という決まりきったゴッホ像を、いったん脇に置くことから始めます。

書誌

2018年に幻冬舎新書の一冊として刊行され、2020年8月に幻冬舎文庫へ収められました。文庫版は176ページと薄く、版元自身が「旅のお供にも最適」と紹介しているとおりの携帯性です。当サイトでも紹介している『モネのあしあと 私の印象派鑑賞術』(2016年、幻冬舎新書)の姉妹本にあたり、あちらが印象派全体の見方を教えてくれるのに対して、こちらは一人の画家をとことん掘っていきます。

著者について

原田マハさんは、美術館のキュレーターとして働いた経歴を持つ小説家です。『楽園のカンヴァス』で第25回山本周五郎賞を受賞し、以後もアートを主題にした小説を書き続けています。この本が独特なのは、その人が小説ではなく、新書という形式で、自分の言葉のままゴッホを語っている点です。物語としてのゴッホは長編『たゆたえども沈まず』に、調べ手としてのゴッホは本書に、というふうに書き分けられています。

内容の骨格

ゴッホの生涯を追いながら、各地に残された足跡をたどる構成です。パリ、南仏のアルル、サン=レミ、そして最期の地オーヴェール=シュル=オワーズ。加えて、作品が集中するアムステルダムのファン・ゴッホ美術館と、オランダのクレラー=ミュラー美術館の紹介も入ります。伝記であり、鑑賞ガイドであり、旅の下調べでもある——この三つが一冊に同居しているのが本書のかたちです。

この本の3つの見どころ(読みどころ)

1.「日本に憧れ続けた」という補助線

ゴッホは弟テオとともに浮世絵を集め、歌川広重や渓斎英泉の作品を油彩で模写し、南仏アルルを日本のような場所だと手紙に書き送りました。ジャポニスムという言葉をなぞるだけでなく、彼が日本の何に惹かれたのか。輪郭線、平面的な色面、明るい光といった具体的な要素として説明されるので、《花咲くアーモンドの枝》のような作品の見え方が変わります。

2. 理屈で考える人としてのゴッホ

複数の言語を操り、画商の店員として働き、色彩理論を学び、売れる絵を真剣に考えていた人。著者はそうした「働く人としてのゴッホ」を丁寧に拾い上げていきます。弟テオへの膨大な手紙を、告白の文学として読む視点も刺激的です。狂気で片づけない読み方が、かえって作品を強く見せてくれます。

3. 現地を歩いた人の具体性

どの作品がどこにあり、どう見るとよいか。それが実感をもって書かれているので、旅の計画書としてそのまま使えます。新書一冊分の分量で、移動中に読み切れる手軽さもうれしいところです。

どんな読者に向くか

美術史の予備知識はいりません。ゴッホの名前と《ひまわり》を知っていれば十分です。薄く、話も時系列に沿って進むので、辞書のように引く本ではなく、頭から通読する本といえます。ゴッホ展に行く前や、旅の飛行機のなかで読み切るのにちょうどよい厚さです。逆に、書簡や研究史に踏み込んだ本格的な評伝を求めている方には物足りないはずです。本書はあくまで、これから見ていく人のための入口です。

類書と何が違うのか

ゴッホの入門書は数多くありますが、その多くは絵の解説を軸に組み立てられています。本書の軸は「あしあと」=場所です。作品ではなく土地を順にたどるので、読み終えたときに残るのが知識ではなく、行ってみたいという気持ちになります。研究者ではなく美術館を運営する側にいた人が書いているぶん、見せ方と見え方の話が具体的なのも特徴です。

関連して見に行けるもの

ゴッホの本物は、日本でも見られます。東京・新宿のSOMPO美術館は《ひまわり》を所蔵し、同館を代表する一点として知られています。広島のひろしま美術館には最晩年の《ドービニーの庭》があり、上野の国立西洋美術館は松方コレクションに由来する《ばら》を持っています。本書を読んでから訪ねると、その一点がゴッホのどの時期に、どんな状況で描かれたものかが分かった状態で向き合えます。

まとめ

『ゴッホのあしあと』は、ゴッホの絵をこれから本気で見ていきたい人にとって、最初に手に取るのにちょうどよい一冊です。読み終えたら、同じ著者がゴッホと日本人美術商・林忠正——こちらは実在の人物です——を描いた『たゆたえども沈まず』へ進むのもおすすめします。手軽な新書ながら、読後に残るのは「もう一度あの絵を見に行きたい」という気持ちのほうです。

Kindle版:ゴッホのあしあと(幻冬舎文庫)