アンリ・ルソー:税関職員から独学でアートの頂点へ、夢と野生のジャングルを描いた素朴派の伝説
美術教育を受けず、パリの税関の仕事をしながら日曜画家として描き続けたアンリ・ルソー。遠近法を無視したフラットで不思議な空間と、夢の中に現れる熱帯雨林を描き、ピカソを驚愕させた一生。
アンリ・ルソー(1844-1910)は、フランスの画家です。美術の専門教育をまったく受けないまま、独学で描き続けた「素朴派(ナイーブ・アート)」を代表する画家として知られます。
生涯:パリの入市税関吏「ル・ドゥアニエ」
ルソーは1844年、フランス西部のラヴァルにブリキ職人の子として生まれました。軍隊生活を経てパリに移り、市の入市税(オクトロワ)を徴収する事務所に勤めます。この職から「ル・ドゥアニエ(税関吏)」と呼ばれるようになりました。実際に絵に打ち込んだのは40代からで、1893年に49歳で職を辞し、以後は年金とわずかな収入で暮らしながら制作に専念します。
審査のないサロン・デ・ザンデパンダン展にほぼ毎年出品しましたが、批評家からは長く嘲笑の対象でした。転機は20世紀に入ってからで、1908年、パブロ・ピカソがモンマルトルのアトリエ「洗濯船」でルソーを主賓とする宴を開きます。詩人ギヨーム・アポリネールらも加わり、若い前衛作家たちが彼を先駆者として讃えました。ルソーはその2年後の1910年、脚の傷から起きた敗血症のためパリで亡くなっています。
画風の特徴
遠近法は平面的で、人物の大きさも現実の比率とずれています。しかし葉の一枚一枚を輪郭のはっきりした形で並べ、緑を何十段階にも塗り分ける独特の丁寧さがあり、画面はむしろ静かな緊張に満ちています。ジャングルを一度も見たことはなく、パリの植物園や動物図鑑、絵入り雑誌をもとに空想の熱帯を組み立てました。
ジャングル画は生涯で20点余りにすぎず、実際にはパリ近郊の風景、静物、そして肖像画を数多く描いています。人物を風景の中に立たせ、背景の建物や気球まで律儀に描き込む形式を、ルソー自身は「肖像=風景(ポルトレ・ペイザージュ)」と呼びました。人物と背景のどちらも主役として同じ密度で描かれるため、記念写真のような独特の静けさが生まれます。
代表作
- 眠るジプシー女(1897年/ニューヨーク近代美術館):砂漠に横たわる女性と、それを見下ろすライオン。月明かりの下の極端な静けさが忘れがたい一点です。
- 戦争(1894年頃/オルセー美術館):黒馬にまたがる寓意的な女性像。ルソーの作品の中では例外的に暴力を主題にしています。
- 蛇使い(1907年/オルセー美術館):逆光の中で笛を吹く黒い人影と、集まってくる蛇。
- 夢(1910年/ニューヨーク近代美術館):最晩年の大作。密林の中に置かれたソファに裸婦が横たわります。
同時代の画家との関係
師と呼べる人物はいませんが、ピカソ、ロベール・ドローネー、アポリネールら次世代の前衛が彼を高く評価しました。カンディンスキーは雑誌『青騎士』にルソーの作品を掲載し、素朴な表現を近代絵画の一つの源泉として位置づけています。
日本で見られるか
東京の世田谷美術館が、国内最大の素朴派コレクションの中核としてルソーの作品を所蔵しています。日本国内でルソーの実作を見られる数少ない場所で、企画展の折に公開されます。
見どころ
まず葉の描き方を近くで見てください。何種類もの緑が、ぼかしを使わず境界をはっきりさせたまま重ねられています。次に少し離れて、画面の奥行きが「遠くのものが小さくなる」のではなく「上に重なっていく」構造でできていることを確かめてみてください。この二つの見方の切り替えが、ルソーの絵の不思議さの正体です。
代表作ギャラリー



作品画像はパブリックドメイン(出典: Wikimedia Commons)


